昭和四十五年三月二十八日 夜の御理解

 まぁいろいろな、あー、御取次ぎをさせて頂きますが、えー、まぁ難儀な問題をみんなが持ってここにはみえます。その事から信心に打ち込んでいけれるとか信心になっていけれるのですけれども、やはり難儀を持って来たからにはその難儀がもう今にでも楽になるような手立てはないものだろうかと言うて神様仏様と言うわけなんですよね。ですからもうとにかくそのー、話なんかが耳に入らんね。今日日田から参って来た方なんかは、えー、まぁしておる女の方なんですけれども。おー、商売をしておる事がちょっと、おー、行き詰まっておった。そこでまぁ大きなお家だからそれを二分して、まぁ一方で今迄の通りの仕事をする。片一方では、あー、なんかバーかなんかのものでも開きたい。といったような事でお伺いにみえたんですけれども。うーん、それはね、そういう事しよるとどっちつかずになるから、今は、あー、そのままで少し信心の方のお話を頂きなさいと。お話を聞きなさいと。うー、とにかく今こころで、ここで言われておるその和賀心になるという事がおかげの受け物ですから、あー、というようにお話をしてもですね、とてもその、そういう事なんか耳にもこう寄せ付けんっていうような感(笑)、入っていかん、いくら私がお話を致しましても。
 もう丁度もうお昼になりましたから私下がらせて頂いて、たら今度はあー、あちらで、えー、お茶でもあげながら今度はお話させて頂いたんです。ところがそのーおー、実はその私が今度はバーを思いたったのは息子さんがあのー、日本食堂。ね。汽車の中の、おー、食堂ー、に皆が行ってまぁ、あー、一人前のまぁコックさんの仕事が出来るようになったんでしょう。ですからその息子がおりますと。その息子にそのバーの方の責任は、あのー、持たせてやろうかと実は思うておったんですけれどもという事でしたんです。なかなか立派な息子さんらしい。真面目でもあるし、仕事もまぁ親から褒められる位に良く出来るらしい。
 ところがですね、丁度あのー、私のこた、あの茶の間です。茶の間からガラス越しに見える向こうの去年はいっぱい咲きましたが、山茶花がね、今年は全然咲かないとがあるとですよ。いわゆる春が来ても花が咲かない。ね。ですからお宅の息子さんの場合はね、なるほど技術も出来、器量も良いと。いうなら器量人でもあるけれどもです、ね。やはりまぁそれを普通では運勢と、運命というのでしょうけれども、本当にならあれもそろいこれもそろいしてもです、なら春が来たようであっても春に花が咲かなかったらどうしますかと。これはお母さん、一つあんたが本気でね、春が来たら花が咲くようなおかげを頂くために、根肥やしの事を心掛けなきゃいけませんよと言うて。息子さんの事になったらですね(笑)、もうそれこそあの目を輝かせて話を聞きだすんですよね。根肥やしという事が、もし本当に根肥やしというものが私は目の当たりにそこにある山茶花を、あの、前のあの山茶花に去年は随分花が咲いたんですよと。ところが今年はやはりその根の方に故障があると言うかひりょ、肥料が効いてないかで今年は咲きません。いわば春が来たけれども咲きません。お宅の息子さんの場合でも、なら時期が来たけれどもそれが繁盛しなかったらどうしますか。問題はね、根をもちっと大事にしなければなりませんねというのはやはり心の事でもあり、まぁ信心、神様目に見えない所をものを信ずるという事ですから、目に見えない所を少し本気で大事にする生き方になる事によってです、息子さんがくるは、もう親は仕方が無いけども子供の時代だ、子供には苦労かけたくない、貧乏させたくないというのが親の願いですねやはり。もう子供さんのその事を言ったらまぁ急にその、まぁ言うならば私の言うておる事が分かるような気がしてこられ、んなら母親の私がこりゃ本気で信心せにゃ、忙しい忙しいばかり言うちゃおられませんですねと。まぁこれからは一週間に一遍位はお参りさせて頂きたいと言うてまぁ帰られたんですけれどね。
 ともう一つは、んこれはもーう、今日は竹葉会でしたがまぁ竹葉会もおしまいの頃、是非私に会いたいという方があってここに出て参りました。そしたらえー、兄弟三人でお参りになっとられましたが、その一人の方がですね。ある所に縁づいて子供が一人出来た。ところが姑さんとのいろんな問題、いざこざがあって別れなさった。別れなさったところが主人が非常におとなしい人でですね、そのおー、実家の方からあちらに用事行ったっきり帰ってきなさらん。でこちらで結局子供さんと、その若い嫁さんと二人で、ですからもうこんな事ではとにかく主人が大しておとなしいらしいですね。もう親に言われたらもう振り切ってなら、いいや私は家内子供の所に帰るという風に言いきらん程しに優しい方らしいんです。ですから他の兄弟達に話してです、とにかくこれはもう話し合い片付けて下さいと言うて、もーう晩も眠られんように、いー、心配をしておるというお届けでした。
 そしたらね、「古川豊美」って頂くんですよ。もう古川豊美といやぁ私の娘の事ですけれども。まぁもちろん字の事でしょう。ですからそのいー、とにかくね、えー、まぁあーその、兄弟、その方の兄弟の方の願いというのがです。やっぱり親子三人で暮らさせたいと。それこそ川という字で寝てみたいという風に親子子供が三人そろうておかげを頂きたい。それにはね、今片付けるといったような事いかん、人に、ま、頼んで片付けてもらうという事も、兄弟がその事に、え、という事はいけん。ま困っておられる方に相談相手になってあげる事は良いけれども、今のまま、まぁいうならば豊美である。豊かに美しいという事にならせてもらう信心の稽古をなさるように。その方のお婆ちゃんという方が私はよく知ってまして、他の教会に参っておられましてね、大変熱心に信心しておられたんです。その方のお孫さんにあたる方。ですから信心の気が無いわけじゃないから一つ、うーまぁあー、夜も眠られん事苦しい事ではあろうけれども、おー、心が一つ豊かに美しゅうならせて頂く事の稽古をされながらです、主人の帰ってこられるのを待ちなさいと。必ず川という字で寝れるような、必ずおかげが受けられるとまぁ言うて、えーまぁ、その事を兄弟の中で、はぁーほんにそうですね、私共でももうひっ片付けしまおうかと実は思うて今日はお伺い来たんですけれども、まぁ片付ける事はやめてその、本人は今日は参ってみえておりませんでした。妹にその事をよくよく今日の御理解を話させて、ま、辛抱させてこのまま時期を待つように申しましょうと、まぁ言うて、えー、帰られました。
 その話でもこの話でもね、私そうお話しながら、成る程此の方の道は話を聞いて助かる道と言うてもね、何ていったってもですね、やはり基礎になるのは祈念力ですよ。御神前でね、本気で拝むという事。祈念するという事。これは例えばあー、昨日から、あー、今日にかけて小倉で学生会があって、こっからも四、五人の学生の方達が参加しましたが、んー、その学生だからですね、そのー、学問的なと、事ばっかりという事じゃなくて、その学問も良い。教学も良い。けれども根本になるものはやはり祈りです。信心は何と言うても。ね。話を聞いて助かる道だという事は話だけ聞いとけば良いという事ではない。それはもう言わんでもまぁ信心は拝むものだと皆が思うておるから、拝む事を強調されずに話を聞く事が強調され、されておられるようですけれども、実を言うたら拝む事が第一だと。祈念力を作る事が大事だと。ね。いうならばあーその、祈念力を得てそして話を聞くと。そこからね、私は話が、あーそのー、何て言うんでしょうかね。祈念力で鍛えたその心、いわば受け心が出来て話を聞くのですから鬼に金棒。教学でも同じ事、ね。本当に御祈念の楽しさというか、御祈念力を作っていく事のおー信心の味わいというようなものが、それは若くても分かってから一生懸命拝むという事のあー、なんとはなしに有難い事である事が分かってから、教学でなからなければ私は地に付いた教学は生まれてこないとこう思う。話を聞いてもそうです。それを分からせる為には非常に骨が折れるんです。話だけでは。
 今日の日田の話なんかやっぱそうです。もう本当に、いー、なんという、力説するわけですね、私が。それでもね、なかなかピンと来ない。そこを祈りに祈ってまぁ私がお話させて頂いとるうちにです、なら今日の方はまぁなんとはなしにね、子供さんの事やら妹さんの事でしたけれども、なるほど、おー、道理を説かれるからそれこそ合点がいき、まぁ片一方の方は子供の事になったらです、本当に春が来てももし花が咲かなかったらどうしようかと、自分は苦労しても良いけれどもという、いわゆる子供になったからまぁ少し話に身を入れて聞かれる事になったんですけれども。やはり何というても祈念力。一生懸命に拝むという事。ね。拝む時間は二十分よりも三十分という様にです、拝む私は稽古をまずする事。そしてその上に立った教学、その上に立った、あー、教導、おー、御理解、教話という事に私はなると思うのですよね。まぁその点合楽の、で、打ち込んでおる方達は若い方といってもなかなか祈念力を皆持ってます。有難い事ですけれども、もっともっと本当の一つ祈念力を身に付ける稽古が大事。為にやはり本気で朝の御祈念なんかの、いわゆるあの御祈念に参加させてもらうという事は有難い事だと思いますよね。どうぞ。